お疲れ様です。さいがきです。久方ぶりにおでかけの機運が高まったので、どこかへビューンをぶん回して長野に行ってきました。思えば最後に遠出したのは昨年12月の八尾ビッカメ。以来関東から一度も出ることなく過ごしました。月報にも遠出の記録はなかったと思います。今回も結局は日帰りではありますが、おでかけの楽しさを嚙み締めることができました。
朝8時半の日進駅からおはようございます。家にいてもしょうがないので早めに大宮に向かおうとしましたが、ものの見事に電車に逃げられました。この日は平日なので、朝の時間も20分は待たなくてもよいのですが、コンビニに行ったりなんだりしてたら結局20分待ってました。
8:40発の各駅停車新木場行きで大宮へ。乗車予定の新幹線にはだいぶ早いですが、日進なんかよりも大宮にいた方が時間は潰せるのでさっさとこんなところは離れてしまいます。
大宮に着きました。ホームに上がるとかがやき505号が入線してきました。発車定刻は9:01なのですが、山形線内での輸送障害に伴い、遅延した山形新幹線及び東北新幹線の接続待ちを行ったため5分ほど遅れて発車していきました。
かがやき金沢行きの定期便は、3月の改正で夜の1本を除いて敦賀行きになります。この505号は大宮発車時刻が30分ほど繰り上がり、行き先も敦賀に変更されます。かがやき金沢行きも貴重なものになりそうですね。
続いてはくたか555号が到着。これは改正後も同じ時刻同じ行き先で残りそうです。続いては上越新幹線のとき309号が到着。そしていよいよ乗車予定のあさま605号が到着です。
これの次には有名な上越新幹線下り最速ランナーのとき311号が到着予定です。一日一回だけ見ることができる「この列車は新潟まで止まりません。」の文字を見ることができます。かつてはMaxとき310号という新潟から東京まですべての駅を通過する列車も存在しましたが、大宮以南は東日本のすべての新幹線が輻輳するほか、騒音問題による最高速度の制限もかかっているため、大宮通過はあまりメリットがなかったようです。大宮以南の建設の際に地元に見返りとして全列車停車という建前もありましたが、先述のMaxときのせいで一時期反故にされたことは内緒です。今や池袋や新宿、渋谷といった副都心まで直通する埼京線との乗り換えに便利であるという理由で大宮は今や全列車停車の駅となったと思われます。実際小田急線や京王線から新宿に出てきて、埼京線経由で大宮から新幹線に乗る人ってどれくらいいるのでしょうか。むさしの号がもう少し本数あれば東京西部からの需要も拾えそうではありますが。
それでは乗車します。E7・W7系は私の好きな新幹線車両ですが、さすがに毎度この座席では飽きが来てしまうというもんです。次回はお金を貯めてグリーン車で旅行をしたいものですが、果ていつになるかは分かりません。なお、この形式にはグランクラスがついているのですが、私はグランクラス童貞は北海道新幹線札幌延伸後の大宮札幌間まで守り抜くつもりですので、北陸新幹線敦賀延伸程度の事案で軽率に股を開く、トー横にのさばっているような尻軽にはなりたくないですね。
さて、列車は北西方向へ快速で走ります。特に関東ですが、最近は快くも速くもない快速が多いので*1、久々に「快速」がしっくりくる列車に乗っている気がします。
ニューシャトルの沼南駅付近、大宮からは5分ほどの地点です。以前「都民の友人が田舎暮らしをすると言って引っ越した場所が埼玉の大宮だった」みたいなツイートが物議を醸していたようですが、5分行けばこれなので田舎扱いされても文句は言えません。なお沼南駅は原市沼に由来する駅名で、住所はしっかり上尾市なので、大宮民は文句を言うなら上尾に言いましょう。
さらに進むと眼下に熊谷バイパスが見えてきます。いずれは地域高規格道路の熊谷渋川連絡道路となる道路で、現在の上尾道路、後々の新大宮上尾道路とも接続し、首都高速道路与野JCTから関越自動車道渋川伊香保ICまでをバイパスする計画です。関越は川越や高坂、藤岡なんかがアホみたいに混む上に、群馬県南の太田や伊勢崎といった都市の交通を改善することができると見込まれてもいるので、早いところ完成して欲しいですね。ちなみに現状、交通マナーは「熊谷バイパスのヤバいの部分」ですので初心者は覚悟すること。冗談抜きで全部の車線が首都高の追い越し車線です。
そんなこんなで最初の駅、熊谷を通過します。1つ先行のとき309号は、新潟までの存在する駅すべてに停車するため、このあさま号は通過なのでしょうか。上越新幹線は列車名を行き先で分けているため、とき309号は全部の駅に止まるくせに、その後ろのとき311号は大宮以外全通過というちゃんちゃらおかしなことをやっています。東海道新幹線のように各駅に止まるこだま号、準速達のひかり号、最速達ののぞみ号と停車駅で種別を分けて欲しいようにも感じますが、あっちもあっちでひかり号が面倒なことになっているのでどっちもどっちでしょうか*2*3。
埼玉県指折りの難読地名の「御稜威ケ原(みいずがはら)」に差し掛かりました。由来は戦時下、この近辺にあった熊谷陸軍飛行学校に昭和天皇が行幸した際に、この学校の校長が命名したそうです。ちなみに一応「みいつ」で「御稜威」は変換できます。「厳(いつ)」を丁寧にした言葉で、意味は天皇の威光。恭しい新興地名ですが、今は陸軍学校の名残の航空自衛隊基地とあとは工場が建っている、だだっ広い土地が余りに余った田舎っぽい地域になりました。
農閑期の沿線をミシンで縫うように突き進んで通過するのは本庄早稲田。ところどころに丘陵が見え始め、田畑も波打って見えます。ぜんぶ茶色いですが。早稲田の研究施設の他に何もない場所を驀進していきます。
しかしさすがは私立のトップ大学です。こんなクソ田舎にこんなにきれいなキャンパスを爆誕させてしまうのだから恐ろしいですね。研究施設の立地としては優れているかもしれませんが、こんなところに学生街が形成される筈はまずないので、高田馬場界隈に干からびたミミズのように湧く一般的早稲田大学の学生と比して、早大本庄の高校生と環境系の大学院生は多少不憫ところがあることでしょう。そして高田馬鹿場が埼京線や湘南新宿ラインにあっけなくスルーされるように、こちらも大半の新幹線にスルーされます。
たぶん八高線を跨ぎます。八高線が上越新幹線をくぐるのは群馬藤岡と北藤岡の間ですので、いつの間にかグンマーに入ってしまったようです。こいつは次にグンマーのプライメイトシティ(?)である高崎に停車し、後続の新幹線*4の通過を待つため、憲兵でも乗り込んできたら不法入国で拉致され、どこへ連れ去られ何をされるか分かったものではありません。怖いのでここはラーメンズ理論でグンタマ県民として息をひそめることにしました。
先述の関越ゲロ混みスポットである藤岡ICです。実際には藤岡JCTの方が混雑するのですが、おんなじ藤岡なので一緒くたにしても怒られないはずです。高崎駅が上越線と信越線(上越新幹線と北陸新幹線)の分岐する鉄道の要衝であるならば、関越自動車道と上信越自動車道が分岐する藤岡JCTは高速道路の要衝です。埼玉県には道路の要衝っぽいところは思いつきませんし、東京都心は首都高が全部合わせてこの役割を担っているように見えますので*5、田舎くさくて自然豊かで車社会の群馬県らしい光景とも言えますね。
烏川を渡って高崎市に入ります。ここからは熊谷を出て以来、再び沿線に都市が形成されるようになります。
上信電鉄線の線路が見えました。佐野のわたし駅周辺です。左側にかかっている橋が佐野橋で、かつて船橋*6だった橋です。なお上州佐野に関しては、橋を渡って逢瀬を重ねていたバカップルが、毒親に橋板を外されたことで川に転落して命を落としたという伝承があるそうで、悲恋の歌枕として有名です。こういう伝承って結末は心中が多い印象ですが、事故死はちょっと意外ですよね。なお烏川の橋板は流れますし、現在も流れ橋として設計されていますが、石神井川の板橋は古代の架橋以来形を変えても流れはしません。おかげで朝ラッシュでは赤羽線の電車も思うように流れてくれません。ボケ。
高崎に着きました。乗客は乗ってきましたが、幸い憲兵は乗ってきませんでした。次の停車駅は軽井沢ですので、ばれないうちにさっさと碓氷峠を越えてしまいます。
先ほどは熊谷以来の、と書きましたが、高崎市の都市の規模は大宮以来の都市です。しかし高崎市は人口が40万に届かないほどの都市で、思っているほど人口がいないのも事実です*7。私はてっきり40万乗ってるもんだと思っていましたし、実際駅周辺がこれならそれくらいいてもおかしくないと思っていたのですが、駅前以外が低層住宅ばかりなので、人口の伸びも頭打ちなのかもしれません。
安中市との境が近づくと、一気に山がちの光景となります。格差ってやつでしょうか。
そしてそのまま安中榛名駅を通過します。ひとつ前の写真を見れば一目瞭然でしょうが、本当にこんな山間の猫の額みたいな開けたところに駅を設けています。ここはある程度の電車オタクなら誰もが知るであろう新幹線の秘境駅です。計画当時は安中市に駅を設置することは列車運行上も支障なく、地域振興の中心となり、観光ルートの拠点ともなるとして多少のルート変更も挟んで駅が置かれた当地ですが、駅周辺にはバスすらろくに来ないうえになんか中途半端で形容しがたいニュータウンのようなsomething*8が申し訳程度に形成されたのみとなっています。後背地に軽井沢を背負う優れた立地であるとは思いますが、いかんせん移住したくなるような、また企業がオフィスを構えたくなるような場所であるとは言えません。というかハード面もソフト面もぶっちゃけ整備が不十分と言って差し支えないんじゃないですかね?
碓氷峠をトンネルで駆け上がり、長野県側に出てくると、法面が雪化粧をしていました。内陸の山岳部とはいえ暖冬の影響もあり、春一番も吹くような晩冬の折、だいぶナチュラルメイクですね。これで冬のスポーツの代名詞のスキーを滑ることができるのか少し疑問に思いました。一方長野県には乗鞍、黒姫、木島平、斑尾、野沢温泉、白馬といったスキー場が揃っており、軽井沢はどちらかと言えば冬はスケートをよく聞く気がします。軽井沢ではスキーはマイナーの方で、スキーに多少不利でもそこまでの影響はないのかもしれません。
一応指定席は8割強埋まる大繁盛っぷりでしたが、ここ軽井沢でおおよそ半分が下車しました。どうやら近隣のアウトレットでウィンターセールを行っていたようで、ほぼ確実にそれ関連だと思われます。そういえば軽井沢にはまともに降りたことがないなぁなど思いながら、あさま号は佐久平へ歩みを進めます。
佐久平駅至近のイオンです。普通に佐久平の写真忘れました。佐久市は岩村田 中込 野沢 臼田の四つの中心集落と、付随する望月や塩名田、浅科といった集落があります。これと言って中心と言える場所は言い難いのですが、佐久平駅にも近い岩村田と市役所のある中込が少しだけ栄えているのかなという勝手な印象があります。ちなみに北陸新幹線は、長野までの区間をミニ新幹線として整備するという案もあったようで、それを提唱したのが現在は新幹線の通らないお隣の小諸市であるとされています*9。対して信越本線のルートから外れる佐久市はフル規格新幹線の建設を提案。国鉄がフル規格にする気満々であったため、小諸市はルートから外されました。おまけに佐久市の新幹線駅の駅名にも「小諸佐久」「佐久小諸」を提案するも却下。この駅の名前は佐久盆地の別名からとって「佐久平」になりました。ルートから外すならまだしも、駅名からもハブられる*10とは小諸としても解せないでしょうし、国鉄側もぐう畜だなぁというのが正直な感想です。私は小諸に降り立ったことは無いので実際小諸がどんな街なのかは知りませんが、ここまで山岡さんの鮎みたいに扱われるのは素直に可哀想だなぁの一言です。
速度を保ちつつかつ、小諸市をギリギリのところで躱してまだまだ進みます。さすがにこれは露骨すぎません...?
確か千曲川を渡ります。北陸新幹線はここから飯山までおよそ千曲川に導かれて北信地方を駆け抜けます。
千曲川が寄り添うようにして、街が開けると上田に到着します。長野県第三の都会で、真田氏の城下町の風貌と、関連の文化遺産が残る観光都市*11です。上田市は市の人口こそ15万人ほどではありますが、都市圏人口で考えるとこの倍ほどの人口を抱えており、長野県内の拠点都市の一角としても機能しています。
特に市街中心部に近いお城口方面はそこそこの量の雑居ビルが林立しており驚かされます。上田中心部の周辺にも菅平高原や鹿教湯温泉、別所温泉、少し離れれば美ヶ原高原などが存在し、観光拠点としても発達してきたのではないでしょうか。規模こそ違えど静岡県の三島のような雰囲気を感じました。
大量閉店が話題になったイトーヨーカドー。アリオ上田の店舗も2025年をめどに閉店という風の噂を聞きました。間違ってても知りません。とりあえず撤退し、ロピアが新しく入ることは確実だそうです。地方都市の大型商業施設は商業的な意義の他に交流拠点であったり人材雇用の観点からも一定の存在価値を孕むものであると認識していますが、もはやそれでも維持することが困難になっていることが衝撃的ですよね*12。まあフードコートとかは残るような感じなので、ただのテナント変更程度にしか映らないかもしれませんね。知らんけど。
記憶が正しければ川中島です。その名を冠した戦いで有名ですね。結局どっちが勝ったのかわからない中途半端な戦です。この地域は千曲川と犀川が合流する地点であり、決着がついてなさそうなのも、図るに汗と川の水でベッシャベシャでやってられなくなったのでしょう。12年かけて5回も合戦をやってるし。一応両者が勝利宣言を行っていますが、川中島地域は戦後武田の勢力下におかれています。じゃあ武田が勝ちでいいよ。なお最終的には武田信玄の死後、勝頼が長篠の戦いでボッコボコにやられ、上杉謙信と和睦し、さらに謙信の死後は甲越同盟を結びズブズブの関係になります。しかしあまりにも仲良くしすぎて越後までしっかり武田さんの勢力となった結果、甲相同盟を結んでいたメンヘラ彼女の後北条さんがヒスって、徳川織田連合軍に叩きのめされることになります。この辺訳わかんないから誰か図解してください。
はい長野です。最終的に指定席は4割いるかいないかの乗車率に落ち着いていました。まあ平日でしたしこの程度がちょうどいいですね。せっかく日常からの解放を求めておでかけを敢行しているのに、満員の指定席で窮屈な思いをし続けるのは御免です。高い金払ってグリーン乗るしか選択肢がないですが、学生にそんな余裕があるはずないんだよなぁ。
長野駅前は想像のさらに上を超える大都会ぶりです。山間の都市と侮る勿れ、駅前のドンキを除けば都内と遜色ありません。なお、長野市の中心街は善光寺口側のみで、長野駅はいわば市街地の端っこに過ぎません。てか国道19号のあたりまでで中心市街地っぽい市街地は終わるのでそう考えると狭いなぁと。東京や大阪といった大都市の市街地の広大さにまた驚かされます。
バスに乗る前に長電のフリー乗車券を購入しておきます。特急料金込みなので、移動の質も効率も向上しますのでとても強力です。鬼に金棒、駆け馬に鞭、フリーきっぷに特急料金です。
さて、善行寺まではそこそこの距離があるのですが、ありがたいことに、道中の常夜灯を追っていけば山門にたどり着きます。
二種類の灯に従っていくとどんどん門前の空気感が増してきます。参道を登るにつれて気分もどんどん高まります。
新田町です。めちゃくちゃデカいビルが建っていて新田感はありませんが確かに新田町です。本当に広い交差点で開放的でした。ちなみにまだまだ善光寺までは1.5kmくらいあります。
どんどん周りの建物と道の雰囲気が変わっていきます。
さらに20分ちょっと歩いて大門に着きました。長野駅からバスに乗ろうと思っていたのですが、結局バスが大門近くの善光寺大門バス停に着くより早く辿り着きました。交通費が浮いてラッキーです。
山門までの道沿いは特に賑やかでした。スタバとかも入っていた気がします。どこにでも入っているような印象のスタバですが、それでもまわりと調和しているんだから企業努力の賜物ですね。
着きました、善行寺です。
ちゃんと牛の顔っぽい「善」を拝めました。特に牛に牽かれたわけではありませんが、善行寺参りをします。
よく神社には行くのですが、寺院にはあまり行かないのである意味新鮮です。ここでお参りをするのですが、ついうっかり二礼二拍手一礼かますと異教徒バレして仏様から首根っこ掴まれて極楽浄土まで打ち上げられた後無間地獄にスマッシュされます。
あまりよく知りませんが、たぶん煙を悪い場所に回すとその場所がよくなるみたいなギミックです。100円でお線香を入れてきました。ちなみに未だに頭もお行儀も良くなっていません。
するとここで後10分ほどで一番偉いお坊さんが来るみたいな案内があったので、せっかくなのでお目にかかることにしました。ちょうどこの日は大般若と呼ばれる、月に一回とんでもない量のお経*13を奉納する日だったそうです。参道に跪いて合掌し、頭をポンと叩いて頂くことができます。なお行列者は撮影禁止です。写真を撮るか頭叩かれるかの二択ですね。
赤い傘の許にいるのが一番偉いお坊さんらしいです。ちなみにこれは正午だったのですが、もうちょい早い時間だと、女性のお坊さんがいらしていたそうです。いや別にそんなみみっちいこと気にしませんよ。
善光寺にお参りが済んだら門前でお昼におやきを食べました。ネギ味噌と鶏肉の山賊焼き風のおやきでした。もちもちで美味しかったです。寒かったので中が熱々なのも嬉しかったですね。私は猫舌なのでしっかり冷まして食べましたが。
その後も適当にふらついて善光寺を後にしました。
善光寺は参道から一つズレた道を通ると雰囲気はそのままで人だけ消えたみたいなところになるので、帰りは裏から帰るのもおすすめです。
次の目的地は長野電鉄経由で湯田中に決定。一度善光寺下駅に着きましたが、善光寺下駅で電車を待たされるのが嫌だったので、権堂駅まで徒歩で向かいました。
昭和の雰囲気がムンムンしていました。昭和を生きたことがない私が言うのだから間違いありません。恐らく、昭和56年に地下化して以来ずっと同じ設備を使っているのでしょうね。チョークこそありませんでしたが、伝言板も残っていて勝手に懐かしい気分になりました。ですが、やったらめったらピッカピカなのでチョークを持参しても記入しない方がいいと思います。知らんけど。
権堂アーケードを真ん中くらいまで行ったところでいい時間になったのでホームに降りました。改札が省略されていましたが、こういう時ってフリーきっぷ持ってても改札通るのが後ろめたいから自動改札機早く置いてください。結構ガチで。
縦書き看板がいい味出しています。今や都心ではこのような光景は消えつつある*14ので、貴重と言えば貴重ですから、大切にして行って欲しいです。しかし、こういったものって劣化するにつれて不気味さを演出する素材にもなり得るため、心のどこかではリニューアル工事をして欲しいとも思っていました。
そういった駅の「昭和っぽさ」を長野電鉄は大切にしているので、電車もそれに見合った車両が走っています。つい最近まで田園都市線で走っていた8500系が来ました。特にこいつは田園都市線が渋谷に来る前から走っていた編成らしいです。相当な古株電車ですよね。私も田園都市線を使う機会があるので*15、8500系には乗ったことがありますが、その時のような轟音で地下区間を飛ばしていたのが印象的でした。
というところで第一幕は終わりにします。文章が淡白に感じていたので調子乗って膨らませたらすごい文量になってしまいました。逆に読みにくいですが削るのもだるかったんでそのまま完走しましたが、次回からはまた文字数を減らさないといけませんね...
それではここまでお読みいただきありがとうございました。次回が出るまで空いてしまう気がしますが、何とか頑張りたいと思います。それでは!